単なる「考え方」に縛られないこと
企業で働く人には〈 その会社の価値観 〉があったりします
「うちの会社では商品企画がエリートコースだ」
「営業で実績を作らないと認められない」
「頭のいい奴は企画部にいく」
親が子に対しても
「野球部でレギュラーにならないと」
「○○大学に入らないと」
「大企業に就職しないと」
という〈 親の考え方 〉を押し付けたりします
「人生とは『自分を高め』『実績を積み』『多くの人に認められる』ことが重要だ」
という 意識の高い考え方 もあれば
「人生はさほど生きる意味はない『いかに楽しく生きるか』が重要だ」
という 自然体の発想の人 もいます
「学生時代が終わったら 就職して定年まで 働き続ける」
「ある程度の年齢になったら 結婚して 子供を作る」
このようなものはすべて『考え方』であって 乱暴な言い方をすれば『妄想』です
人の影響を受けにくく『我が道を行く』人はいいです
人の影響を受けやすい人や
「親に認められたい」「周りに評価されたい」という承認欲求が強い人は〈 妄想 〉に振り回されます
臨済宗と曹洞宗
スティーブ・ジョブズは「禅」に大きな関心を寄せていたそうです
「禅」といえば〈 曹洞宗 〉と〈 臨済宗 〉
曹洞宗はひたすら座禅を組むことにより『無の境地』を求めます
臨済宗は『問答』を重視しています
とんちの一休さんが臨済宗です
「このはしわたるべからず」⇒「じゃあ端でなく真ん中を歩こう」
「屏風の中の虎を退治しろ」⇒「じゃあ屏風から虎を追い出してください」
『問答』を極めているうえに『とんちの才能』もあったので 切り返しが鮮やかです
修業とは「常に物事を自分で深く考え続けること」というのが日本の臨済宗です
西洋の哲学も同じです
常に「○○とは・・・」を考えていきます
こちらは何千年もの賢人たちの思想が書物になっています
私達は『周りに押し付けられて定着してしまった考え方』に縛られて苦しんだりします
それを脱するには『自分で深く・広く・柔軟に考える』しかないような気がします
気にするから苦しい
何かをすると批判されたりすることがあります
ですが『批判は批判する人の力量を示すもの』です
『やましいことがないのであれば 何を言われても気にしない』という生き方が望ましいです
ドイツの作家 ジャン・パウルは
身の上に起こる幸不幸は
その大きさによってではなく
感受性に応じて我々の心を動かす
と言います
「気にするから苦しいのだ」と解釈できます
法治国家の国民として法律は守らなくてはなりません
ですが「思考は自由」なのです
縛られ・苦しんでいる妄想があるのなら
それに代わる新しい考え方を 自分で見つけるか 生み出すしかないと思います
本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました