原因自分論もいき過ぎると・・・
「すべての責任は自分にある」
「成長するために努力する」
原因自分論の人は成長もし、仲間からも支持されます
「俺の教え方・伝え方がまずかった」
「私の計画が甘かった」
責任は私にあるという上司のチームは成長し、上司も部下に指示されます
「原因は自分のある」という自責思考の人は、問題に対し改善を重ねていき成果にもつなげていきます
何かある度に「俺のせいじゃない」「○○のせいだ」という原因他人論の他責思考の人はあまり良い目で見られません
部下は無言で反発してきます
〈責任感が強い〉〈常に自己改善して成長〉は良いこととして評価される項目です
「責任は俺にある」とどんどん自分を追い込んで自分を傷つけている〈意識高い系の人〉もいます
その人の周りの人も「自責思考はどんな時も正しい姿勢」と盲信している場合が多く、救うどころか支持することが多くなります
人の身体の成長に限界があるように、人は常に成長できるわけではありません
「なんでも努力さえすれば乗り越えられる」
「人の成長に限界はない」
「流した汗は裏切らない」
と盲信しすぎることは危険です
メンタル不調や、行き過ぎて自滅する人もいます
「自分は大切」という勘違い
青森県恐山の院代を務める南直哉氏は、生きづらさや苦しさを感じている人たちの話を聞く中で、仏教の考え方が問題解決の糸口になると言います
人生相談に来られる多くの人は『自分を大切にしなければならない』という勘違いをしているということに気づいたそうです
勘違い・・・?自分を大切にするのは当たり前だろ・・・と思ってしまいます
南氏曰く
①『大切な自分の人生を充実させなければならない』と考え
② 思い通りに行かない日常や人間関係に苛立ちを覚え
③『私の人生はもっと良くなるはず』と焦っている
これが生きづらさを感じる心の流れのようです
そもそも自分とは何でしょうか?
身体でしょうか?
身体の細胞は3ヵ月で全て入れ替わり、3カ月前とは別人です
「われ思うゆえにわれあり」
自分とは心でしょうか?
心も朝と晩では変化していたりします
あまりこの辺の話を煮詰めると、苦手な哲学の分野になってしまうのでもっと無為自然な考え方をすると
人は望んで生まれてきたのではなく『たまたま生を受けた生物』です
「紛争地域に生まれる」
「飢餓のひどい地域に生まれる」
「独裁政権の自由のない国に生まれる」
「極寒の地に生まれる」
など選ぶことができません
たまたま生を受けた人間が『なりたい自分になる』という考え方が生きづらさの原因のようです
多少の満足といくつかの後悔が普通の人生
生まれたばかりの赤ん坊は人の手を借りないと生きることができません
人は人生の始まりからして人の手を借りないと生きることができません
「もう学校を出て自分の力で稼いでいる!一人前だ!」
と言っても
・誰かが作った食材を食べ
・誰かが作った服を着て
・誰かが作ったインフラを利用し
・誰かが作ったスマホを肌身は出さず利用し
数えきれないほど多くの他者の手を借りて生きています
人は他人の存在によって生き延びています
『自分はこうあるべき』とむやみに力を入れて生きることが不自然なのかもしれません
生を受けてからずっと受け身の存在なのに、駆り立てられるように積極的に生きようとするところに『生きづらさ』が生まれるのかもしれません
「本当の自分は違う」
「なりたい自分になる」
「人生をもっと有意義に」
「意味のある人生を送る」
などはよく聞きますが、不自然がゆえに『生きづらさ』の要因になっているのかもしれません
人生の最後を迎えるときに『多少の満足』と『いくつかの後悔』が残るのが普通の人生だと思います
本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました