花火の街の偉大な思想
新潟県の長岡市に行ってまいりました
新潟県の社長が日本一の長岡花火の桟敷席を用意してくれ、絶景でした
コロナで2年中止となり、今年は立ち見客なしの招待客のみの開催でしたが街のホテルはすべて満室です
以前4年半ほど転勤でこの町に住んでましたが、いつも立ち見だったので本当に感謝です
この社長は従業員40人前後の会社ですが非常に教育熱心で、かなりの時間を教育研修に割いています
現在、取引はないのですが教育・人財育成を議論する仲間として関係が続いてます
長岡藩は『陽明学』を中心に教育がされており、戊辰戦争後の『米百俵の精神』でも有名な土地です
先日は河合継之助いが映画化され、その前は山本五十六が映画化されました
戦後最大の実力者の総理である田中角栄もこの土地の出身です
私が住んでいた頃も、中高生が非常に礼儀正しく、東京から来ると同じ学生でも大人びて見えます
国づくりは人づくりから
幕末維新の戊辰戦争で長岡藩は討幕派の薩長連合と戦います
軍事総督・河井継之助の指揮のもと、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行いました
敵軍5万人にたった690人で挑んだ結果、城下町長岡は焼け野原となりました
長岡藩の窮状を知った支藩の三根山藩から米百俵が贈られてきます
食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であった為に皆喜びます
ところが藩の大参事小林虎三郎は「この百俵の米を売って学校をつくる」と決断します
当然、飢えに飢えてる藩士たちは激高し小林虎三郎に「米を配れ」と詰め寄ります
「飢えという一時の苦しみより未来の為に優秀な人材を育成する」と譲らず信念を貫きます
人はまず第一に『生存欲求』がありますから食は何よりも優先します
『食べる』より『人財育成』
このような決断ができる人はまれにしかいないと思います
国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可されます
「時勢に遅れないよう時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成する」という理想を掲げ、その実現に向けて動き出します
『国づくりは人づくりから』
ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥などの、新生日本を背負う多くの人物が輩出されていきました
問題を先送りする罪
私達個人も、政治家も、企業も『変化する苦痛を嫌い問題を先送るする』ことがあります
私が長岡の支店長になった時、9年連続年間予算未達成の問題支店です
9月に配属され年内は経験したことのない悲惨な業績でした
12月から3月は暗く厚い雲に覆われ気分がさらに落ち込みました
年末にまわってきた社長に
『やりやすいことをやるのではなく、困難でもやらねばならないことをやれ!』と言われます
「今のままでは結果は見えてる!苦しくとも新規開拓をすべきだ」ということです
長岡のスタッフは豪雪地帯で育ったせいか、とにかく忍耐強かったです
14人とも欠勤・遅刻・早退などは4年半でゼロでした
明るく・熱心に・根気よく新規作りをしてくれました
途中にあった中越大震災にもめげず、目標対比155支店中2位にまでの支店になりました
大雪に耐える忍耐強さ
苦しい時こそ人は成長しなければならないという米百俵の精神
が長岡のスタッフにはあったと思います
私のようにぬくぬくと暖かい静岡で育った人間とは違います
その後は厳しい環境で育った人には敬意をはらうようになりました
その地に宿っている精神というものには素晴らしいものがあると思います
本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました