終戦の30年後に帰国した2人の日本兵
昭和という時代は『戦いの時代』だといえます
武力による戦争でアメリカに負け・経済戦争でアメリカに勝った時代だと思います
戦後30年ほど経過し、2人の日本兵が発見され帰国しました
グアム島の横井庄一さんとフィリピンルパング島の小野田寛郎さん です
私が高校時代の空手の師範は
「横井さんが帰国した時は、国により無理やり戦争に駆り出された庶民が無事に帰国し、良かった良かったという感じだった」
「小野田さんの場合は、30年に渡って身を潜めていた人間とは思えないほど鋭い眼光を放ち、戦闘意欲をびりびり感じ、全身に粛然とした雰囲気をまとっていた」
「小野田さんはいずれ映画にでもなるんじゃないか・・・」と語っていました
そんな小野田さんの映画「ONODA 一万夜を越えて」が作られました
何を犠牲にしても命令は絶対だった
当時、軍命は絶対です
小野田さんは師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕はまかりならぬ、最後の1人になっても戦え」と指令を受けて任務を遂行します
上官の言葉を胸に秘め、歯を食いしばってジャングルで30年間生き続けた人です
米軍の勧告で小野田さんのグループ以外の日本兵は投降するも、小野田グループの3人のみが残り、以降、孤独な戦いを続けることになります
国は何度か捜索隊を派遣します
それでも小野田さんは捜索隊には気づいていても「罠ではないか?」と考えて自ら身を隠していたといいます
戦友を全員失い孤独の中でついに捜索活動におとずれた日本人と接触し、帰国します
小野田さんは帰国する条件として「直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる」と言い武装解除には簡単には応じません
かつての上官、谷口義美元陸軍少佐からの任務解除・帰国命令が出され30年ぶりに日本に帰国します
ここでやっと小野田さんは終戦を迎えるわけです
当時の日本人は『組織の命令は絶対』『何より優先して命令をやり抜く』という気質でした
『家族も犠牲』『自分の命さえ犠牲』は当然だったと言えます
順応した横井さん・馴染めなかった小野田さん
長きにわたりジャングルで戦ってきた2人に、高度経済成長で目覚ましい発展を遂げ、様相も風習もすっかり変わった日本はどう映ったのでしょうか?
横井さんすんなり順応します
帰国した年にお見合いをしてその日のうちにプロポーズし、結婚しています
めでたしめでたし・・・という感じです
対して小野田さんは新しい日本に馴染むことができず、帰国後に結婚したものの夫人と共に次兄のいるブラジルへ移住して、牧場の経営に成功をはじめます
地元の和歌山県に戻った時も「私はもてはやされるようなことはしていない!命令に従っただけだ」 と多くを語りませんでした
称賛を浴びる一方で「軍国主義の亡霊」などといった批判も多く受けていたそうです
帰国後は青少年の健全育成を目指し、キャンプでサバイバル術を教える「小野田自然塾」を立ち上げたました
「人として強くないと、他人に優しくすることはできない」
と子どもたちに何度も語っていたそうです
小野田さんは「新しい日本に馴染めない自分」と「日本に対する愛国心のある自分」の両方と戦っていたようです
本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました