武士の時代の教育はどうだったのか
日本は長らく鎖国をしており300年遅れていたことになりますが、開国と同時にすごい勢いで先進諸国の文化・文明を吸収していきます
これは日本の寺子屋で『読み・書き・そろばん』を教え込んでいたためだと言われています
知識を吸収・知識を伝達・計算ができたので吸収が早かったと言われています
「江戸時代の子供たちはどんな教育をされていたのか」歴史研究家の河合敦さんの研究を基に調べてみました
江戸時代の教育は各藩に委ねられていたそうです
私が以前いた『米百俵の精神』の新潟県の長岡藩などは陽明学を取り入れていたと土地の人が話していました
次に転勤した茨城県の水戸市は水戸黄門で有名な徳川御三家の地です
転勤族だったので「その地その地で教育文化が違うな」と興味をもつようになりました
この時代の教育は武士の子供が中心になります
『読み・書き・そろばん』以外にも精神鍛錬の教育が武士の教育の特徴とされます
薩摩隼人はこうして育成された
薩摩武士で有名な薩摩藩に藩校では藩士の子供たちは郷中と呼ぶ近隣グループを作って自主教育を行っていたようです
現在は〈小学校低学年〉〈小学校高学年〉〈中学校〉〈高等学校〉の3年4クール
薩摩藩では
6歳から10歳頃までを小稚児
11歳から15歳頃までを長稚児
15歳から25歳頃(妻帯前)までを二才
と呼び、それぞれの同年齢集団がお互いに研鑚しあったようです
小学校高学年と中学がくっつき、高校と大学がくっついたような教育体系ですね
小稚児集団は長稚児に、長稚児は二才に指導を仰ぐ年功序列の教育制度が機能していたので「教えることの能力」を培っていたのかもしれません
スケジュールを見ると
稚児は毎朝6時に二才の屋敷へ行き、四書五経などを学ぶ
午前8時になると同年齢集団で相撲や戦ごっこ、駆けっこや縄跳びなどで遊びながら体を鍛える
午前10時小稚児集団は長稚児のもとに集まり、今朝学んだことを反復させられる
昼から午後4時までは遊戯の時間ですが、個人行動は許されず仲間とともに遊ばなくてはならなかったようです
その後は武道の鍛錬ということで、稚児は二才から2時間みっちりしごかれます
午後6時になると、小稚児は一切の外出を禁じられた
長稚児は、二才のもとに出向いて夜8時まで夜話を聞き、武士としてのあり方を学んだ
これが1日の流れのようです
教育で重視されたのは知識の修得ではなく
・仲間との団結
・長幼順の遵守
・武芸の上達
・いざというときに命を捨てる覚悟
・人間としての潔さ
であり、こうした教育を受け続けることで、主君の命に絶対的に服従する剽悍な薩摩隼人が完成したようです
会津藩の最も武士らしい教育
会津藩松平家の祖は保科正之ですが、会津藩の領主はめまぐるしく入れ替わります
会津の地を支配していたのは蘆名氏でしたが伊達政宗がこの地を占領します
その政宗も翌年、小田原平定に遅延したことから豊臣秀吉に会津を没収され、秀吉は同年に蒲生氏郷を会津に入れます
蒲生氏郷の後、秀吉から会津を付与されたのは上杉景勝ですが、関ヶ原合戦後は蒲生秀行が旧領会津へ戻ります
その後も目まぐるしく領主が変わっていきます
その会津藩の教育は
男児は6歳になると城下の寺子屋や私塾に入り読み書きを学びます
同時に「什」と称する10名前後のグループに属し、毎日いっしょに遊びます
リーダーを什長と呼び9歳児がその任に就き、毎日仲間に向かって「什の掟」を読み上げる
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五、弱い者をいじめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。 ならぬことは、ならぬものです
というもので、掟を破った子は「手あぶり」「雪埋め」「派切り」にされたそうです
「いつ藩命で切腹を申しつかっても、武士らしく自害できるように」との考えからであったようです
10歳になると家臣全員が藩校「日新館」に入学します
会津藩は「幼年者心得之廉書十七カ条」を全藩士に配布し、幼少年の家庭教育を徹底させています
会津藩では、幼いときから目上の者や父母に対する絶対的な服従心を家庭で教えていたのです
こうした教育により、会津藩では独特な士風が醸成されるようになったようです
これはまだ日本人の精神に残っているものが多々ありますね
本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました