頑張る人や努力する人は評価すべき論
「あいつは頑張っているから」
「あの人は本当に努力家だ」
私達は懸命に頑張っている人を評価します
人より努力している人は美しいし、やはり努力に報いる成果を出してほしいと願います
研修のコーディネーターをしていた頃『営業成績のいい社員に学ぶ』という講習がありましたが、正直「営業成績がいい社員に努力家は1割くらい」と感じました
その多くが「出来るだけ頑張らなくて、いい成績を出すにはどうしたらいいのか?」ばかり考えている社員が多かったです
教育研修課も「ロクに努力もしないで要領よく数字を創っている事実を若手の多い研修に発信していいものか?」となります
結局は「努力は人一倍していてなおかつ工夫もしている」というストーリーにしたがります
「社会人は結果が全て」という事実がありながら、とにかく『努力する姿は美しい』『要領の良さのみで努力しないのは成績が良くても美しくない』という考え方が真実を捻じ曲げます
人によっては「先輩に気に入られて、先輩の転勤時にいい取引先を引き継いだ方が労せず成績が良くなる」と考えており『努力するよりひいきされる方がはるかに重要』などと考えています
人はどうしても「美しい」「醜い」という基準が離れないようです
もっとも厄介な頑張る能力の低い人
世の中『こうしたら成功する』という書籍があふれている割には、成功者が少ないと感じます
「成功例を語ってください」と言われると、ついつい美談にしてしまい間違っても運の良さや要領の良さを強調しません
「どうしたら成功できるか?」というアンテナを立てていても、美談で大げさにデコレートされた情報ばかり取り入れてしまいます
モルトケの法則で観ると「能力」と「意欲」の2軸で評価をし、以下の順番で出世させるべきであると主張しています
1.意欲が低く、能力が高い
2.意欲が低く、能力も低い
3.意欲が高く、能力も高い
4.意欲が高く、能力が低い
「意欲が低い者を優先?」ちょっと意外に感じると思います
「僕は能力が劣る分、人の何倍も努力しています」と言われれば「能力があるのに対して努力もせず、いい成績だけは作っている」人よりずっと美しい姿に見えますが、これが落とし穴のようです
組織にとって最大のマイナスが『能力は低いが意欲は高い』タイプで、意欲だけが空回りしてしまう可能性あるからのようです
一般的に意欲やバイタリティ溢れる人は「頑張ってるね」「努力家だね」と高く評価されがちですが、意欲の高さが能力の低さをカムフラージュしているのがまずいのです
周りも頑張っていると評価をしてしまい、実力とは関係なしに何となく評価されがちで、本来の成果をキチンと見極めずに評価し登用してしまうとやはり組織を害します
組織に必要なのは『成果・結果』であり、やる気と仕事に対する能力に相関はありません
私自身も支店長時代経験があり、転勤先に入社2年目のY君がいました
人事部の後輩が「前の支店長には認められなかったようですが、とにかく明るく素直で頑張り屋なんでよろしくお願いします」と言われます
返事もいいし、よく動くし、確かに人より努力家ですが、どうしょうもなく営業成績が振るいません
「転勤させて代わりに新入社員をもらった方がいいのでは?」と前任支店長と同じ考えが頭をよぎります
毎年春になれば新入社員が入ってきますが、夏を前にして新入社員にも成績を抜かれます
そうこうしているうちに5年目となり、6人の後輩社員とは埋めようもない差となっていました
本当に頑張り屋であることは認めますが「努力はいつか報われる」「流した汗は嘘をつかない」などの言葉は薄っぺらだなと私も思うようになります
楽をすることを考えるのが人間の本性
また能力はなくとも出世欲や権力欲は高いタイプも問題で、人を蹴落としたりして手段を択ばず出世しようとします
「責任は部下に押し付け、部下の手柄はかっさらう」という人がそうで、大きな組織には良く見受けられます
仕事ができないけど出世欲が非常に強い人は確かに下にいる社員がまいってしまいます
意欲が高いことはいいことに思いますが、その意欲が時に組織に大きなダメージを与えることがあるので危険視されているということで、やる気やバイタリティに騙され、間違った登用をすれば組織は衰退してしまうのを知っていトップはこの辺をよく理解しているのかもしれません
とにかく上にはいい顔をし、部下には無理難題ばかり押し付ける人はいます
ドラマでは制裁をくらうタイプですが、現実世界では上手く上に上がっていきます
「努力する姿は美しい」
「頑張ってる人は応援してやりたい」
と思うのは普通だと思いますが、それが組織にマイナスを及ぼすのも確かです
本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました